わっきいさんの頭の中

140字に収まらない言葉と雑創作の掃き溜め。

菊の花


月が湖畔に映り、ゆらゆらと動いている。

刀を捨てた男が1人空を仰ぎ、ただ映る月をぼうっと眺めていた。

「お菊…今行くぞ」

脇差を抜き、腹に力を込めて、いざ斬ろうとしたその時、白く眩い光が辺りを包んだ。

─────

男は目を覚まし、厠で用を足したら顔を洗う。朝日を浴びてふと思った。

「ここはどこだ?」

急に冷や汗が出てきた。確かに富士の樹海に行き、たどり着いた湖で腹を切ったはずだった。しかし目覚めたと思えば何故か寝間着に着替えており普段通りに朝を過ごしている。何が起きたか分からないが死に損なったのは確かのようだ。

「と、兎に角ここは何処なのかを確かめねば」

慌てて外に出てみたら更に慌てることとなった。何とここは私の家ではないか。先程は慌てて分かっていなかったがよくよく考えれば当然のように厠も水汲み場も使っていた。

「どういう訳だが腹を切った傷がない。そして自宅に戻ってきている。不思議なこともあるもんだ。まるで仏に諭された気分だ。」

だが男はどこか引っかかっていた。どうやら街が若返っているような気がしているのだ。ともあれ色々考えているうちに腹が減ったので自分が贔屓にしていた蕎麦屋に向かった。

「御免──」

「きゃっ」

引き戸を明けた時出てきた女性とぶつかってしまった。

「か、かたじけない!怪我はされてないか?」

と、手を差し出し向こうの顔を見た時、度肝を抜かれた。

「────お菊?」

「えっ?」

「お菊!!」

咄嗟に抱きついてしまった。それは男にとってどうしようもない衝動だった。それもそのはず。それは生涯をかけて護ると誓い、自らの刀で斬ってしまった最愛の妻だったからだ。

「あ、あのう…」

はっとして身を離した。

「す、すまぬ」

「いえ、それよりもどうして私の名前を?」

「!?」

その男は一瞬で悟った。先程の違和感はこれだった。街が若返ったのではない時間自体が前に戻っているのだ。そして男は思い出した。確かにこの時期にお菊と知り合い仲良くなって妻になり1年後に刺客と戦った時に割って入った妻を斬ってしまうことを。

「お…お菊…」

思わず涙が出てしまった。それを見た若かりしお菊は

「とりあえず中に入りませんか?美味しいお蕎麦用意しますよ」

と優しい声で呼びかけた。その声に男はまたさらに涙が出てきた。

蕎麦を食べ、一服ついた時にお菊に一連の出来事を話した。お菊は元々の真ん丸な目を更に丸くして話を聞いていた。

「……とても辛かったのですね。」

お菊は何かを考えるようにし、そして男に話した。

「私はその話を聞いてとても嘘だとは思えませんでした。そしてなんだか分かったような気がします。今こうして貴方の話を聞いて私は貴方にとても愛されていたのだなとよく分かりました。とても、嬉しいです。」

男は少し理解出来なかった。会ったばかりの男に時間を遡ってきたなどというような話をし、況してやその男に将来斬られるなんて話を普通信じるだろうか。

そうこう考えているうちにまた目を疑う光景になった。今目の前で笑顔を浮かべていたお菊の顔に血が染みて、気付けば男の腕の中に居た。これもまた男にとって忘れもしない惨劇の光景だった。

「……お、お菊…私は…」

男は信じられなかった。2度も愛する妻を看取らなければいけないなど考えたくもなかった。

「……泣かないでくださいませ。貴方の男前な顔が台無しです。」

斬られても尚、笑顔のお菊は男の頬に手を添えた。

「貴方は何度も刺客に狙われてきました。その度に貴方は狂剣を振りかざしてきました。もう、そんなことをしなくていいのです。どうか、人を斬るのは私で最後にしてくださいませ。」

「俺は…俺はお菊を護りたかった。護ると誓ったのだ。血に濡れようとも、この身を挺してでもお菊を護りたかった…しかし…しかし私は…!」

「その気持ちは…私にはもったいのうございます。……どうか、生きてくださいませ。私はとても…とても……」

お菊の手が地に落ちた。男は激昴した。

「……仏よ。何故このような仕打ちをするのですか。俺が、人斬りだった罰ですか。そうだとしたら、あんまりです。…いや、罰だとしても最期に妻に会えたのだ。ちゃんと言葉にして伝えればよかった。愛していると。言葉で然と伝えたかった。俺は…とんだ愚か者だ。この罪を地獄の底まで背負わねば、俺はお菊を弔うことができんだろう。」

そしてまた、眩い光が辺りを包んだ。

─────

どれほど眠っていただろうか。目を覚ますとそこは月ではなくひょっこり顔を出した朝日が湖をきらきらと照らしていた。あれは夢なのか。確かに死のうとしたはずだが…

『どうか、生きてくださいませ』

はっと頭によぎった。そうか。これは仏からのお告げなのか。もう一度、生きてもいいのか。男は足元に転がっていた脇差を手に取った。そしてふと気がついた。湖畔の近くの木の根元に菊が一輪咲いていた。傍に居たのだろうか。死に際に黄泉から止めに来たのだろうか。途方もないことを考えて刀を納めた。

「いやしかし、この樹海をどう抜けようか。」

ぽつりと呟き、歩き始めた。朝日を頼りに。